統合失調症という脳の病気を20年以上抱えながら執筆を続ける当事者作家が、ミステリーの形を借りて描いた中編小説。
現実と妄想の境が溶けていく恐怖、自己の存在が揺らぐ感覚を、息をのむような緊張感で追体験させる作品です。
精神疾患を「怖い」ではなく「知りたい」と思わせる、静かで深い一冊。
主人公・麻野拓真は、ある雨の夜、見知らぬ街で目を覚ます。
身に着けているのは見覚えのない黒いライダースジャケットとブーツ。
財布には大量の札束が入っており、クレジットカードは使えない。
鏡に映る自分の顔さえ、どこか他人に見える。
コンビニの店員、電車の乗客に既視感を覚え、不安が膨らむ中、謎の男「F」が現れる。
Fは拓真と同じ顔を持ち、「俺はお前だ」と告げる。
物語はスクランブル交差点でのクライマックスへ。殺人事件の容疑者として追われ、Fとの対峙で銃を手に取る拓真。
引き金を引いた瞬間、撃たれたはずの自分の胸から血が噴き出すが、それは奇跡的に消え、逃走劇へと移る。
作者は、統合失調症の代表的な症状—被害妄想、離人症(自分が自分でない感覚)、させられ体験—を巧みに織り交ぜ、現実が崩れていく過程をリアルに描きます。
Fとの対決は、病気の「自分じゃない自分」との闘いを象徴し、読む者の胸を締め付けます。
作者は、シナリオセンターで学んだ脚本技法を活かし、エンターテイメントとして昇華。
健常者向けに「統合失調症とは何か」をわかりやすく伝えると同時に、当事者の内側からしか書けない生々しさを残しています。
家族の不在、孤独、死の不安が重くのしかかる描写は、病気がもたらす世界の見え方の変化を強く印象づけます。
クライマックスで拓真が叫ぶ「僕は僕だ!」という言葉は、自己を必死に取り戻そうとする叫びそのもの。
逃走の結末は、病気を抱えても「走り続ける」しかない人間の姿を、開放感とともに描き出します。
この物語は、統合失調症をセンセーショナルに扱わず、静かに、しかし逃げずに描いています。
「精神疾患とは何か」を、フィクションを通じて初めて実感できる一冊。
あなたの周りに、もしかしたら似たような苦しみを抱える人がいるかもしれません。
その人の世界を、少しだけ覗くきっかけに。


